Over Bridge

「時間のつくり方、つかい方」を考える。

2015年の抱負

バングラデシュの出張から帰ってきて、実家でのんびりと過ごした。

帰るたびに小さくなる父と母を垣間見、少し悲しさが込み上げながら、

また都会でやってくるよと意気込む新幹線のなかだった。

 

去年は自分の中で、「仕事」の意味を改めて考え直すいい機会だった。

片麻痺の方と共に作ったウエストバッグ、

たくさんのコラボ案件、一つ一つの案件が自分の中で思い出深いものとなり、

体力の限界とどんな時でも考える癖付けを徹底できた。

 

そして2015年、27歳になった今年はきっと転機の年となるだろう。

今年のテーマは「克」。

自分の設定する /ぎりぎりと感じる枠を超える。

去年の反省としてあるもの、それはミスなく思い切り仕事した/結果を残したという意識が実現できていないこと。

そして新たな次のステップに向かう。

 

万物並び行くして相害さず。道並び行われて相悖らず。

自分の言葉をもっと正確に紡げるようにならないとな。

 

今年こそは、生きた年にしよう。

 

自分の「いま」を言葉にする

人の感情は起伏があるもの。

起伏のある感情の調子の良いとき、悪いとき、それぞれの振れ幅を

自覚しないと自分のコントロールは難しくなる。

 

些細なことでも余計なことを言ってしまったという風に、

一定の余裕はもたないと難しい。

 

僕の感情の起伏も知らず知らずのうちに自覚の外に出てしまったようだ。

 

どうしたんだろう、無意識にぐっと眠り込んでしまうときが生まれるようになった。

何をしようとしても、どこか「休めよ」というもう一人の自分。

そしてどこかおかしいなと感じるもう一人の自分。

 

無意識のうちに本を読んでいた。

司馬遼太郎燃えよ剣

 

土方歳三の半生を綴り、シンプルな一人のひとの生き方を丁寧に綴った

この本。僕は無意識に読み始めたのだけど、ようやく何で手に取ったかがわかった。

 

それは誰かの人生に自分を仮託し、自分の内にあるものを盛り上げたかった、

というものだろう。

結局自分の行動の源泉は自分が操作するものだけど、

刺激を外部で取り込もうと思ったのだ、と思う。

 

それだけ自分では、自分で何かするというものが難しく思ってしまったんだろう。

 

ずっと気を張って、つい最近地元に帰らないといけないことがあって帰った。

時間に余裕が生まれ、どうもそこから知らず知らずのうちに

おかしくなりかけていたのだと思う。

 

ただ自分でこんなことに気づくようになったんだ。

少しは大人になったんだなぁって、バカだけど思ってしまう自分がいる。

 

やっぱり「いま」、生き抜いてみよう。

すぐには難しいけれど、またすこしづつ積み重ねていく。

 

 

 

ありがとう

「ありがとうと言われましたね。逆にこちらが本当にありがとうなのに。」

サンプル商品を実際に試着してもらった後の帰り道、素直に口にでた言葉だった。

 

僕の中で大切にしているプロジェクトが始動した。

それは片麻痺の人の生活の悩み、そして工夫されていることを教えてもらい、その悩みを解決するためのバッグを作るということ。

 

今回はSさんという片麻痺の方と一緒に、僕たちでどんな人もやったことのない、ファッションとして気軽に人との接触をしてみたいと思えて、機能として体のハンデを出来る限り吸収するウエストバッグを作ろうというものだった。

 

片麻痺というと、どんな障がいなんだろうと思われる方は多いと思う。

僕も最初に片麻痺と聞いたとき、果たしてどのようなものなのか、イメージすることが難しかった。

 

例えば駅や通りを歩いているとき、片方の半身が麻痺していて、もう片方の手と足で移動されている方。杖を片手にびっこをひいている方などの多くが片麻痺と呼ばれる障がいをもっている。片方の手と足が程度の大小はあれ自由が利かず、そこから生まれる実生活の問題がたくさんあり、そのひとつひとつが彼ら独自の工夫によって何とか克服しようとするものだった。

 

「ウエストバッグを使っているが、両手で留め具を使わないといけない。

普段は家族にやってもらっていますし、自分でやるとなると30分くらいかかってしまう」こんな風にと実際に着用しようとするSさん。片手で留め具の片側をもち、同じ手でもう一つの留め具を持ち、合わせようとする。

ガチャガチャとなる金属音と真剣に何度も座ったままの状態で留め具を見つめるSさん。そしていざ付けたとしても、ベルト部分が完全に体にフィットしていないのでファスナーをあけようとするとバッグの本体部分までも動いてしまう。

 

バッグを付けるだけでこうなのだ。そしてバッグは自分が移動するときに使うモノを入れる道具。移動するために必要となるバッグがそもそも使いづらい。

だからこそ外出をしないようになったと仰る。

 

障がいをもち、ハンデを克服するためにリハビリを何ヶ月もトレーナーと行う。せっかく自分で体をコントロールできるようになったのに、実生活では今まで自由に使えていたものの使用で悩み、自分の思い通りにいかない。それでも彼らが使っているものは、自分たちで思い思いに工夫されていた。Sさんの話とともに、それはもっと自分で自分の生活を成り立たせるぞっていう思いにみえた。

 

この人の、そして同様の悩みを持っている人がもっと気軽に外出を楽しめるものができれば。モノ作りの会社として、悩みを一つ一つ教えてもらいながら作ってみたい。自分でいろんな困難を超えようとしている人が少しでも喜んでくれるものができないか。そしてもっと気軽に外に出かけて自分の生活をもっともっと楽しんでもらえたら。

 

自分たちの作る物で、誰か喜ぶ人がいてその人の生活がかわるかもしれない。今までなかったもので、僕たちではどうやって作っていいかも販売していいかもわからない、だけどこのままじゃいけない。だからやってみる。

 

半年の開発期間に30以上のパーツを試し、何度も何度も着脱と仕様を試し、ようやく良いかもと思ったものをSさんにモニタリングしてもらいフィードバックをいただく。

最初は大丈夫かなと思ったサンプルも、徐々にSさんの要望にあい、

その度にフィードバックを聞くのがうれしくて、初めて挑戦することも、

喜ぶ姿があると思えば、やってやるって思いに変わる。

 

Sさんの生活はサンプルの使用とともに、自分の家から外に歩けるようになり、そしてバスに乗って移動するまで広がった。

 

 

「これじゃないと駄目なんです。作ってくれてありがとう」

 

 

協力頂いた大手パーツメーカーや福祉研究所の方の大きなサポートがあった。

この「ありがとう」の言葉にはSさんの苦難や、

皆で挑戦した今までの開発のひとつひとつの困難が全部含まれた「有難う」だった。

 

難しいことがあるから有難うという言葉がある。そして一番難しいことを挑戦していた人に、このありがとうはあるんだと思う。

 

とはいってもいよいよスタート地点。

ここからだ。

訓育

訓育って言葉、非常に新鮮だ。

訓育
くんいく
discipline

知識の習得をおもな目的とする「教授」に対し,意志,感情などを涵養して望ましい人格を形成することをおもな目的とする教育作用。知育に対する徳育に該当し,また「しつけ」の意味に用いられることもある。(ブリタニカ国際大百科事典)

 教授については、やり方はHow toがあり、それぞれ身につけ方は決めっていたりするが、訓育についてはやり方は千差万別、人の意志や感情をどのように涵養するかというのは特に最近はタブー視されるような内容かもしれない。

というのも、やれリレーで順位付けしたら強要だなどという意見が生まれ、これが人格形成に役立つという議論の際はすごくセンシティブになってしまって建設的なアクションがとられていない感がある。僕の友人の先生なども育て方をあまりにも制限しすぎると何をやっていいのか考えられず、結局監督者(教育委員会や親御さん)などのご意見伺いで終始すると話していた。

 

人が本当にこれでいいのかなって思うとき、やり方のようなもの、いわゆる何かカテゴリーをつくり出してあげてその上でいまこんな議論があるよって人に話をしてあげた方が人は話を聞きやすいのかもしれない。

 

例えば、人の育て方なんてみんな思い思いでいいのよ!みたいにいわれたとしても、

仮に教育現場だったり会社の教育制度を考える現場だったりすると、それは困る、という話になる。

そのとき同じ話題を提起して話をするためにもカテゴリーという概念は必要だ。

まぁそこで知識の涵養だけではなく、マインドセットの涵養という意味での訓育というものがでたとき、僕はああ、このカテゴリーあるなぁとおもった。

 

訓育かぁ。

 

自分の訓育を考えてみよう。

 

Fortitude

中国の二胡の曲「二泉映月」を聞いている。

流れるような柔らかくしなやかな音、琴線って呼ぶのにふさわしい

高い音が織りなし、美しい音が耳に入る。

 

柔らかさ、しなやかさ、伸びやかさ、曲がっても折れない竹のような感じ。

 

そしてここ最近思ったこと、それは「Fortitude=不屈」というのは如何に大切な

マインドセットなのだろうということ。

物事を発想し、実行する、そして成果が上がるまでのあいだ、たくさんの仲間たちと議論を行う。そして商品を作り、販促を行うのだが、デザインのチェックであったり、

細かい部分まで入れると本当に様々だ。

 

折衝の一つ一つ、自分でこれが出来るのかという瞬間、体力的にガタがきて

精神も蝕まれていく。そんな中で余裕を維持するのは難しい。

ただそこで大切になるのはこれを何としてでも生んでみせる。

これがあれば安い言葉かもしれないが世の中が変わる、と思えるものこと。

意志とでも呼ぼうか、これが思いとして維持できるとき、不屈という状態、

どんなものでも逃げずに向かう、という意識が持てる。

 

そして逆もしかり。不屈を持つ前に投げ出してしまうというのは

なんともったいないことか。

 

不屈とは、漢字で書くとごつくって、剛ってイメージがあるけど、

じつはしなやかで柔軟なものなんだろうなって思う。

自己体験を放り込む

生きると時間、このテーマって本当にずっと自分に問いを投げさせるもの。

「こんな生き方ってあるんだ。それで尚も生きることをやめない。強いな」

「こんな気持ちいい時間の使い方あるんだ」

って、生きるも時間も、人はみんな共通でもっているもので、興味を持ちやすい。

 

僕は多分、そんな人の生き方を見たり味わったりするのが好きだ。

そして自分もこう生きようって思いなおしたりする。

 

「人は脳はぼけるけど、感情はぼけないよ」

これはずっと親を介護しながら、どんな人でも使えるファッションを

考えている女性が放ったことば。

その方がいつも笑顔で思い切り働き続けている中、こんな言葉を話してくれたのだった。

 

自分のの役割を作り、舞台を用意し、その上で勝負する。

喜劇でもなく悲劇でもなく、単なる偶然とリアル。

 

その日常が何とも胸に込み上げてくる。

ああ、生かされてるなぁと。

 

人間の建設

前回の記事から、大分時が経ってしまった。
自分の思ったこと、感じたこと、考えたことを載せる場なのに、もったいない。

そこで今回は最近(といっても昨日だが)読んだ本を紹介しよう。

ところで、個性っていったい何なのか。
誰でもそんなことを考えたときはあると思う。
ここでは、個性という概念を、ただ如何に目立つかという表現を通さず、
腑に落ちる形で紹介してくれた一つの本がある。

ただ本とはいっても、ある二人の雑談で、話題は芸術、数学、文学、物理と
かなり多岐にわたり、個性と一言で表現するのは些か強引だと思う。
ただここでは自分が興味を持った、「自我」、そして「時間」という
ことから、二つをあわせて「個性」の再定義を行ってみたいと思う。

さて、ここで出る二人とは、
まず一人、近代日本の文芸評論の確立者として、
文化のみならず政治思想にも多大なる影響を与え晩年は文化勲章を得た、小林秀雄
そしてもう一人は 日本史上最大の数学者と呼ばれ、数学史上三つの大問題とされていた
問題すべてを一人で解決した、岡潔

所謂杓子定規な捉え方をすれば、文系の偉大な思想家と、理系の偉大な数学者の雑談、
といったところだろうが、ここまで哲学的に、つまり他から影響を受けない次元にまで
要素を削ぎ落とした議論は中々お目にかかれるものではない。

そんな二人の議論を通して、自分が感じたことをいかに述べよう。
では、「人間の建設」の一説を紹介しながら話を進める。

「楽しいことはラクどころか、難しいもの」
”人は極端に何かをやれば、必ず好きになるという性質をもっています。
好きにならぬのがむしろ不思議です。・・・好きになるということが
難しいというのは、それは難しいことが好きにならなきゃいかんと
いうことでしょう。たとえば野球の選手がだんだんむずかしい球が打てる。
やさしい球を打ったってつまらないですよ。・・・つまり難しいことが面白い
ということだが、だれにでもあります。”


これは中々の箴言だといえる。
特に自分みたいな飽きっぽい人間にとって、努力して
何か深くなるまで考察してみないのは、折角の面白さを台無しにしている。

さて、その「難しさゆえの面白さ」はどんなところでも適応できるものなのか?
岡はここで持論を展開している。
”学問だけでなく、人のふむ道、真善美、もうひとつ宗教の妙、どれについてもいえることです。”

この難しさを楽しみながら、人は個性を見いだす。
その個性というのは一つの注意をはらむ。
自己中心的に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっています。
仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。


その醜悪さを無明といい、これをあえて描いたものがピカソの絵だ、と。
ただこの小我を本人が知ってか知らぬかで大きな違いがある。
それは何か?岡は短い言葉で真理をついている。
”今の絵描きは自分のノイローゼをかいて、売っているといえるかもしれませんね”
・・・対象は皆敵だと思って、ファイトと忍耐をもって立ち向かうのでしょう。
そうすると、神経のいらだちが自ずから画面に出る。
それがよく出るほど個性があるといっている。


それならば、いったいどんなときが個性をもっている状態なのか?
”丹念に長いあいだ取り扱ってきたものを見ているうちに、
自分の心から欲しいままなものが取れたのじゃないか。
ほしいままなものが取れさえすれば、自然は何を見ても美しいのじゃないか”


私が強く感じる個性のあり方、そしてずっと現代芸術などに対して
理解できない漠然とした意味不明さと気持ち悪さについて、
ひとつの答えをなしてくれるんじゃないかなと思う。

つまり、自分も他者も心地よいと思えるもの、
その感情を共有するにはまず自分が心地よい状態となること。
そしてそれは、長い間蓄積され続けている何かから一度ぱっと目を離したときに生まれる、
あの光り輝くような感じ、愛着を持つというか時間を愛おしいと思う感覚こそ、
大切な個性といわれるものではないだろうか。

そんな時間の見方をまだまだ学んでいきたいと思う。