帰国
足りない頭にある煩悩との戦い、
せっかくこの記事を書くのだから静かでまったく悩みのない状態で書こうと思い、そんな時がくるのを待っていたのだがそう簡単に頭の雑音は消えない。それでも書こう!と決めると徐々に頭はすっきりしていく。よかった。
帰国した。帰国の4日前に完成する予定だったサンダルとバッグ(生産途中で作ってみようと話して決めた)は、自分の度重なる指摘と停電の復旧を待つという予想外の事態のために帰国の前日の夜21時に完成(バッグは出国日の30分前にムジジが空港に届けてくれた)した。
最後までハラハラの生産だったが、ひとつの区切りを迎えたわけだ。月曜から日曜、毎日8時から19時までコツコツとハンドメイドで作り上げた品物はものすごく愛着の湧くもので、飛行機に乗っているあいだも「まさかこの飛行機にサンダルが乗ってないことはないよな?」と不安でいっぱいだった。
タンザニアでの出来事を思い出し、反芻してみる。
仲間たちと出会ってマーケットに赴き、サンダルの値段や素材を知り、素材調達をする。そこではサイザル生産工場の扱う量があまりにも桁外れに多いために頓挫し、メーカー探しでは相手にされずこのプロジェクトの理念を伝えた翌日にはあり得ない額の見積もりをメーカーから出せれてみんなからお前はカモにされるから来るなと言われるし、そんななかタクシー強盗にあってスラムに連れていかれて男たちから殴られひとりゲストハウスで自分の「甘さ」を痛感したり、今だから言える「折れそうな」ときもあった。
しかしトコトコと職場から家に帰る途中に出会う屋台のおばちゃんと会うたびに「ジャパニーズ!今日はどうだった?」とバイクから降りて話してくれるおじさん、屋台のおばちゃんの息子たちの元気いっぱい姿は常に励みになった。そして日本にいる仲間たちには活力をもらい続けた。「合理主義に巻かれるな」と出発前にいってくれた先輩、「生きろ」と言い続けてくれた友達。その言葉が「負けてたまるか」というふつふつした感情になりアドレナリンに変わって次の日の朝になるという具合に。
タンザニアでの最後の夜、スタッフの家でスタッフ全員と彼らの友達と酒盛りをする。わいわい飲んで飲んで、ここまでの過程をみんなで話し合って笑いあう。そのあいだに2回も吐きながら意識が朦朧となる自分。結局酒を全部空け、友達の部屋のベッドに倒れる。徐々に睡魔が襲ってきて寝ようと体を横にしたとき、スタッフのひとりがやってきた。
「じゅんき、今いいか?」
「うん?」
「・・・ぼくらのことを忘れないでくれ。」
忘れるわけがないと起きて話したのだが、蚊帳の中ではずっとその言葉が頭の中を回った。彼らの収入だと日本に来るのは1年くらい働かないといけない。この言葉の重みを自分は知っているのか。蚊帳に入って自分の隣で寝るそのスタッフとやっぱり彼らと距離があるんだなと感じて泣いてしまった自分。やっぱり「どうにかせんとな」と感じてしまう。
日本に帰り岡山の実家に帰る。
姉ちゃんも帰って来ていて2年ぶりの家族全員でのご飯。
ニコニコして笑って晩ご飯を食べて、姉ちゃんは自分の部屋に戻り親父とおかんと飲む。
「どうだったか?」と父。
「自分は甘いと思ったよ。だけどやっと社会で勝負できる。少しは自分に胸を張れるわい。」と私。
「あんたはわがままばぁしたんじゃけ遊び足りんとは言わせんで」と母。
「よかったの。」と目を潤ませる父。
そういえば去年はここに突然帰った自分が大泣きしながら父と喧嘩したんだなと思いだす。
「あんたが病気になったから俺はやりたくもない就職活動をしないといけん。なんでもっと早く亡くならんかった?毎日毎日楽しかったのにあんたのせいで朝が大っきらいじゃ。」
「それを言ってワシが謝ったらお前は満足か?お前がここに帰って来てもいづれワシはおらんようになるしお母さんだってそうだ。中高の仲間たちだってみんな広島や愛媛に行って働いとるじゃろ?お前が帰る場所はここじゃない。自分の中しかない。心の拠り所をもっていないお前は、だから子供なんじゃ。」
「心の拠り所」とは何か?それを考え、こうだと思う結論があった。だからタンザニアに行った。
心の拠り所とは過去を振り返ると今の原動力となり、未来を想像するとワクワクするもの。それは自分がこれだと思う道を進むこと。だからこそ途上国で自分が何をどこまでできるのか、確かめて進んでいこう。そう決意したものだった。
やっと私は自分と勝負しながら社会で勝負もできると思う。
まだまだ甘いかもしれない自分ではあるが、周りの人たちに助けてもらいながら行くのだろう。一喜一憂で感情に振れ幅がある不器用で真直ぐしか進めない自分だが、周りに感謝して少しでもそれらに何かできて喜べたらと思う。まだまだ、まだまだ。仕方がないという言葉を使うには早すぎる。
最後に少しでも一連の流れが分かるように写真を載せよう。
・家の前
・素材調達地モロゴロ
・素材工場へ向かう途中の橋
・を渡るバイクのおじさん(スタッフとおじさんと3人乗りで工場を探し回った)
・きさくなダルエスサラームのみんな
・メーカーと最終交渉をするみんな
・製造開始
・検品するメガネ
・ミーティング前風景
・同じく製造
・毎日一緒に手伝ったスタッフ。働かせすぎて寝てしまった。
・サンプル
・出国前。前日30分睡眠とメーカーのバッグを不安のなか待つみんな。
・ザンジバルの海
・ザンジバルの屋台
では、今に生きよう。
とAvril lavigneの「who knows」を聞いている自分。これからも日記を書きながらブログを続けていこう!
そして本当に最後に、
御心配をおかけして申し訳ありませんでした。
またブログの更新が遅くてすみませんでした。
せっかくこの記事を書くのだから静かでまったく悩みのない状態で書こうと思い、そんな時がくるのを待っていたのだがそう簡単に頭の雑音は消えない。それでも書こう!と決めると徐々に頭はすっきりしていく。よかった。
帰国した。帰国の4日前に完成する予定だったサンダルとバッグ(生産途中で作ってみようと話して決めた)は、自分の度重なる指摘と停電の復旧を待つという予想外の事態のために帰国の前日の夜21時に完成(バッグは出国日の30分前にムジジが空港に届けてくれた)した。
最後までハラハラの生産だったが、ひとつの区切りを迎えたわけだ。月曜から日曜、毎日8時から19時までコツコツとハンドメイドで作り上げた品物はものすごく愛着の湧くもので、飛行機に乗っているあいだも「まさかこの飛行機にサンダルが乗ってないことはないよな?」と不安でいっぱいだった。
タンザニアでの出来事を思い出し、反芻してみる。
仲間たちと出会ってマーケットに赴き、サンダルの値段や素材を知り、素材調達をする。そこではサイザル生産工場の扱う量があまりにも桁外れに多いために頓挫し、メーカー探しでは相手にされずこのプロジェクトの理念を伝えた翌日にはあり得ない額の見積もりをメーカーから出せれてみんなからお前はカモにされるから来るなと言われるし、そんななかタクシー強盗にあってスラムに連れていかれて男たちから殴られひとりゲストハウスで自分の「甘さ」を痛感したり、今だから言える「折れそうな」ときもあった。
しかしトコトコと職場から家に帰る途中に出会う屋台のおばちゃんと会うたびに「ジャパニーズ!今日はどうだった?」とバイクから降りて話してくれるおじさん、屋台のおばちゃんの息子たちの元気いっぱい姿は常に励みになった。そして日本にいる仲間たちには活力をもらい続けた。「合理主義に巻かれるな」と出発前にいってくれた先輩、「生きろ」と言い続けてくれた友達。その言葉が「負けてたまるか」というふつふつした感情になりアドレナリンに変わって次の日の朝になるという具合に。
タンザニアでの最後の夜、スタッフの家でスタッフ全員と彼らの友達と酒盛りをする。わいわい飲んで飲んで、ここまでの過程をみんなで話し合って笑いあう。そのあいだに2回も吐きながら意識が朦朧となる自分。結局酒を全部空け、友達の部屋のベッドに倒れる。徐々に睡魔が襲ってきて寝ようと体を横にしたとき、スタッフのひとりがやってきた。
「じゅんき、今いいか?」
「うん?」
「・・・ぼくらのことを忘れないでくれ。」
忘れるわけがないと起きて話したのだが、蚊帳の中ではずっとその言葉が頭の中を回った。彼らの収入だと日本に来るのは1年くらい働かないといけない。この言葉の重みを自分は知っているのか。蚊帳に入って自分の隣で寝るそのスタッフとやっぱり彼らと距離があるんだなと感じて泣いてしまった自分。やっぱり「どうにかせんとな」と感じてしまう。
日本に帰り岡山の実家に帰る。
姉ちゃんも帰って来ていて2年ぶりの家族全員でのご飯。
ニコニコして笑って晩ご飯を食べて、姉ちゃんは自分の部屋に戻り親父とおかんと飲む。
「どうだったか?」と父。
「自分は甘いと思ったよ。だけどやっと社会で勝負できる。少しは自分に胸を張れるわい。」と私。
「あんたはわがままばぁしたんじゃけ遊び足りんとは言わせんで」と母。
「よかったの。」と目を潤ませる父。
そういえば去年はここに突然帰った自分が大泣きしながら父と喧嘩したんだなと思いだす。
「あんたが病気になったから俺はやりたくもない就職活動をしないといけん。なんでもっと早く亡くならんかった?毎日毎日楽しかったのにあんたのせいで朝が大っきらいじゃ。」
「それを言ってワシが謝ったらお前は満足か?お前がここに帰って来てもいづれワシはおらんようになるしお母さんだってそうだ。中高の仲間たちだってみんな広島や愛媛に行って働いとるじゃろ?お前が帰る場所はここじゃない。自分の中しかない。心の拠り所をもっていないお前は、だから子供なんじゃ。」
「心の拠り所」とは何か?それを考え、こうだと思う結論があった。だからタンザニアに行った。
心の拠り所とは過去を振り返ると今の原動力となり、未来を想像するとワクワクするもの。それは自分がこれだと思う道を進むこと。だからこそ途上国で自分が何をどこまでできるのか、確かめて進んでいこう。そう決意したものだった。
やっと私は自分と勝負しながら社会で勝負もできると思う。
まだまだ甘いかもしれない自分ではあるが、周りの人たちに助けてもらいながら行くのだろう。一喜一憂で感情に振れ幅がある不器用で真直ぐしか進めない自分だが、周りに感謝して少しでもそれらに何かできて喜べたらと思う。まだまだ、まだまだ。仕方がないという言葉を使うには早すぎる。
最後に少しでも一連の流れが分かるように写真を載せよう。
・家の前
・素材調達地モロゴロ
・素材工場へ向かう途中の橋
・を渡るバイクのおじさん(スタッフとおじさんと3人乗りで工場を探し回った)
・きさくなダルエスサラームのみんな
・メーカーと最終交渉をするみんな
・製造開始
・検品するメガネ
・ミーティング前風景
・同じく製造
・毎日一緒に手伝ったスタッフ。働かせすぎて寝てしまった。
・サンプル
・出国前。前日30分睡眠とメーカーのバッグを不安のなか待つみんな。
・ザンジバルの海
・ザンジバルの屋台
では、今に生きよう。
とAvril lavigneの「who knows」を聞いている自分。これからも日記を書きながらブログを続けていこう!
そして本当に最後に、
御心配をおかけして申し訳ありませんでした。
またブログの更新が遅くてすみませんでした。